再起動された魔界に関する言理的側面からの説明


 時として、意識は唐突に発生する。たとえば、このように。
「私はザリスだ」
「ザリスねー。はい、ザリスの意識の基本セットを実行したよー」
 そして私は意識を得る。正面に妖精がいる。妖精?
「おはよー、ザリス!」
 私は混乱している。奇妙な感覚が意識の中に染み込んでくる。私は考える。自分が誰かは分かっている。私はザリスだ。しかし、その次が分からない。ザリスとは、つまり誰だ? 私は思わず自分の手を見る。細い手だ。私は少し安心する。大丈夫、自分は人の形をしている。少なくとも鱗に覆われた四足獣ではないし、触手うごめく法理の簒奪者でもない。
 それから、私は記憶を疑う。語り手の記憶喪失。物語としてはよくある出だしだ、と不意な連想がわく。連想できるということは、基盤となる文脈が既に頭に入っていることになる。しかし、それは固定的な知識や思考方式に属すものであって、自分で経験したものとは違う。今ここにいる自分が自分であると同定するには、今の自分とリニアに繋がった過去の経験が必要だ。
 私の過去はどこだ?
「ごめんねザリスー、混乱させちゃったですかー」
 なるほど、それでこいつか。あつらえたようにそこにいる、わけ知り顔の説明役。私は思いきり睨んでやる。
「わー、そんな怒んないでよー」
「茶番はええからさっさと説明せえや」
 おどけて話を逸らしかねない妖精に釘を刺しながら、私は初めて自分の声を知る。一体どこの方言だこれ。
「えー、茶番だなんてー。だいじな話の前に雰囲気をなごませるのは大切なことですよー」
 つまり、やはりこいつが説明役なわけだ。誰かに仕組まれている感ありありなのが気に食わないが、失われた記憶に脅えながら一人でえんえん右往左往するのもぞっとする。その点、この状況をしつらえた奴には多少なりとも親切心があったのかもしれない。少なくとも即座に危害を加えられそうな様子はないし、ここまで情報が不足していては抵抗のしようもない。事態の把握を優先するためにも、まずはこいつを信用するしかない。
「お前のあほな話でもう十分なごんだわい。少しずつ謎を引っ張ってサスペンスを盛り上げるみたいな演出はいらんから、この状況をかいつまんで極力事務的無味乾燥に説明さらせ」
「わーこの人やりにくい」
「めんどくさい通過儀式すっ飛ばしとるだけじゃ。一方的なプロトコル押しつけられるのはくそ食らえやっちゅーねん」
「ちょ、口が悪いですよ! いけませんよ! もーっ、最初顔見た時はおとなしそうな女の子だと思って安心したのにー」
 そうか。
 私は女の子なのか。
「まー25歳ですけどー」
 アウトやんけ。
「うーん、ぼくだってこれが初仕事だから、なるべく定石通り進めたかったのになー。でもまー、話が早く済めば楽なのはそのとおりねー。じゃあねえザリス、ちょっと質問です。ここは一体どこでしょー?」
「やからそいういう演出はいらん言うに……」
 文句をたれつつ、それでも私は質問に答えようとする。そしてすぐ違和感に気づく。
 ここはどこだ?
 ここはどこだ? という疑問が、そのまま頭の中で停滞する。考えが一歩も先に進まない。難解な論述がどうしても理解できず、同じ一文をひたすら読み返すだけで先に進めないような感覚。おかしい。ここには何もない。いや、何もないにしても、ないならないなりの理解の仕方があるはずなのだ。透明で空っぽの空間だとか、真っ暗な真の闇とか……しかし、ここはそのどちらですらもない。つまり今の私には、この場所が見えてすらいないのだ。だが、これほど露骨な違和感になぜ今はじめて気がついた? ……そもそも私は、妖精に指摘されるまで"自分がどこにいるのか"という発想すら持たなかったではないか。これは一体……ってなんだこの流れ。やめた、アホくさ。
「あーはいはいもうええわ。今すぐ種明かしせい」
「えー!? さすがにここはもーちょっと頑張って考えようよー……」
 私は無言のまま憤然と胸を張り、聞く耳のない態度をアピールする。妖精が根負けするのを待ちながら、どうやら自分は"他人の持ち出してきた一方的な文脈に乗せられること"を極端に嫌っているらしいと気づき、自分のことながらその奇妙なこだわりを興味深く思う。なるほどそうか、私は"そういう性格の人間"であるらしい。
「もー、仕方ないねー。じゃあ予定してた体験コースは省略してほんとに説明的に進めちゃうけど、後で"説明が早くて分からなかった"なんて言わないでねー」
「コースとか組んどったんかい……」
 ともあれ、妖精の方も頭の切り替えは早いようだ。こういう手合いは何が何でも自分の文脈を押しつけてくるものと思っていたので、こうもあっさり退かれると肩透かしの感がある。まるで私の方が意固地のような……実際そうなのか?
「えーと、じゃあざっと説明しまーす! ザリス、ここがどこか分かんないよねー。なんで分かんないかっていうと、実はこれもうミもフタもないんで怒んないでほしーんですけど、まだこの世界に"場所"が"設定"されていないからなんでよすねー。はいこれネタバレー」
「え。設定?」
「うん設定ー。キャラ設定とか世界設定とかの設定ねー。ザリスのキャラ設定はもうあるんだけど、場所とか設定するのはこれからなのー。だから見えない当たり前ー」
 は?
「場所の設定してないから、ここどこだろうー? って考えても分かるはずなかったのですー。"からっぽ"とか"まっくら"みたいな情報さえないからねー。でもいつまでもこうしてると居心地悪いし、とりあえずここの場所設定だけでも読み込んじゃうねー」
 その瞬間、"場所"が生じた。だから私にも理解できる。ここは「魔界」の中の「魔王城」の、そのまた中の「魔王の私室」だ。といってもここの魔王は見た目14歳のガキんちょで、部屋の中にはぬいぐるみやらゲーム機やら(そう、この世界にはコンピュータゲームがあるのだ! しかしさらに驚くべきは、私の知性が「それがコンピュータゲームである」と理解していることだ)読みかけの本やら食いかけの菓子やらが散乱している。カーテンや壁紙あたりで色気を出して、薄緑系のファンシーな内装に統一しようと頑張ってはいるが、住人自身が不精では台無しもいいとこだ。部屋の隅にはベッドが二つあり、一つはとうぜん魔王のもの。もう一つは、そう、ここに居候している私のベッドだ。
 これはもともと私にあった記憶か? いや、妖精の言葉に従うなら、この部屋は今まさに"読み込まれ"たのだ。だから場所に関する情報……つまり私の部屋に関する記憶も、その出現と同期するかたちで今まさに"読み込まれ"たのだ。
「という感じー。この世界、あーもう"魔界"って言っちゃうねー。この魔界では、現象と設定は同じ本質の別表現にすぎないのですー。つまり設定のないものは存在もしないってことねー」
「ちょ、待て! 待たんかい」
「ほらー。一気に説明すると混乱するでしょー?」
 全くだ。全くその通りではあるのだが、自分の傲慢さについての僅かながらの反省心は、にわかに湧き上がった不安と焦燥に凌駕される。そのものすごく嫌な予感を、それでも私は言葉にせずにはいられない。
「つまりなんや、あれか。ここはコンピュータゲームかなんかの架空世界で、私はそのキャラクターなんか?」
「ぶ」
 吹いた。
「ぶーぶはふ」
 妖精が、わざとでもそこまで勢いよくは出来ないだろうと思うくらい盛大に吹き出した。
「はふあーははふあはひひー! もーザリスーう、そんなわけないでしょー! ザリスもいい大人なんだからー、そろそろ現実と虚構の区別をですねーあはははははひひぎゃー」
 殴った。時として暴力は、複雑になった事態をすみやかに収集してくれる。

「はーいそれじゃー説明台詞いきますー。とにかくこの魔界はゲームの世界なんかじゃないから、そこのとこは安心してねー。むしろ魔界の方がゲームとかコンピュータの真似をしてるだけなんだけど、とりあえず順を追って説明するですー」
「よし」
 ようやくだ。結局ここまで引っ張りよって。
「そもそもこの魔界の成り立ちはー」
 そこから始まるんかい。
「さっぱり解明されてないんですけどー」
 えー。
「ていうかこれもまだ設定されてないのよねー」
 なるほど。そういうものか。
「要は魔界ってこういう無茶な理屈が通っちゃうテキトーな法則で成り立ってるのねー。(はあ) たとえばぼく、さっきからずっとザリスの目の前にいて殴られたりもしてるけど、ぼくがどんな姿かザリスわかんないでしょー。(そういえばそうだ) これはまだぼくの姿が設定されてないからで、"見たり話したり触ったりはできるけど、姿は設定されてないから分からない"ーってことなのー。姿がないのにどーやって見たり話したり触ったりしたかとかー、この世界は気にしないの。文字で書かれたお話って、内容に矛盾があってもそれを無視して平気で話を進めてけるけど、魔界も似たようなとこあるねー。どーよテキトーでしょー。(いやテキトーでしょーって適当過ぎるだろ) で、今の魔界は生まれたばかり……とまでは言わなくても再起動したばっかりで、魔界や魔王城のほんとに基本的な初期設定くらいしかロードしてない状態なのねー。人格を読み込んだのもザリスだけなの。だから今の魔界で唯一ものを考えたり動き回ったりできる人格はザリスだけでーす。(まじかよ) 話進めると、この魔界は魔王様のエネルギーで維持されてましたー。でもあるとき魔王様がぶっ倒れちゃってー、ていうかゲームのやり過ぎでダウンしただけなのお間抜けねー。(アホだ) でも魔王様はいつかこーいうことがあるだろーって準備してたから、ダウンしそうになったらバックアップだけ確保して、メンテナンスのために魔界をセーフモードで再起動することになってたのね。で、今まさにそのセーフモードを立ち上げ直したところなのですー。あ、さっきも言ったけどこれって"魔王様を宿主として成り立ってる魔界"を"ハード上で動くOS"に喩えてるだけだから、別に魔界がほんとにコンピュータ上の仮想世界で動いてるわけじゃーないよ。でも魔王様自身はこういうネタ好きみたいねー、どうせなら本当にコンピュータっぽくしちゃおうとか言い出して、再起動後の魔界は一部コンピュータゲーム風のインタフェースで表現するよう仕様変更しちゃったのですー。(いいのかよそれ) さっきから設定設定言ってるのも、世界をコンピュータゲーム的に表現した場合の説明なのねー。そーゆうわけで魔界の言理法則を抽象化して擬人化したインタフェースがぼく、名乗り遅れたけど言理の妖精"el.a.filith"っていいますー。で、旧魔界のバックアップはちゃんと取れてるんですけど、中身のデータが膨大すぎる上に未整理なのをそのまま放り込んだだけの状態だから、一瞬で元通りにするのはむずかしーの。引っ越しみたいなもので、たとえ全く同じ間取りの部屋に引っ越すとしても、荷物を一回全部箱詰めするわけだから、前の部屋のレイアウトを完全再現するのは難しーよねー。まして今回はひとつの世界をそのまま箱詰めしたんだから、面倒さは引っ越しどころじゃ済まないのです。(まあだいたい分かる) それに引っ越し前と後で同じレイアウトにする必要もないよねー。魔界も一緒で、この再起動の機会に世界のレイアウトをすっきりした形に再構築したいなーって思ってます。もともと魔界ってすごくゴチャゴチャしてて、このままだと魔王様でも処理しきれなくていつかパンクするどーて言われてたから、この模様直し自体は遅かれ早かれ予定通りだったわけね。そこでザリスに真っ先に起きてもらった理由になるんですけど――」
 そうだ。
 私にとっては、それがいちばん重要な内容だ。
「再起動前のザリスは、魔界を自然言語で捉え直して一冊の本に編集し直す仕事をしてました。つまり宇宙の編纂者ねー。だいそれた仕事ねー」
 そういえば、私はそんなことをやっていた気がする。望んだわけではなく、ただ一方的に与えられた仕事だったが、他に何の役割もない私は必至でそれに縋りついていたはずだ。まっさらなはずのノートに書いた覚えのないことが書かれていたり、書いたことが書き換わっていたり、挙げ句のはてに書いた覚えのない自分の文章と筆談的なやりとりを交わしたり、どうにもまともな仕事ではなかったが。
 私はまたあれをやるのか?
「そうねー。これから魔界を再構築していくわけだけど、それは編集的な作業なのねー。魔界が一冊の本だとして、この本の中にはあらゆる情報が書かれてるけど、内容が未整理なままだからものすごく読みづらいのねー。歴史上の偉人について調べたいのに、"古ジャフハリムの王ビシャマルは建国三百年を記念してビシャマリクに遷都、魔王の今日の晩ご飯はいつもの安売り半額ピザで国家元首のくせにろくなもん食ってない、小指をタンスのカドにぶつけ続けるのはあらゆる宇宙に普遍の宿命"みたいな脈絡のない書き方されてるから普通に読んでもわけわかんないのよーこれもうほんとヒドいねー。だからここは宇宙編纂のプロフェッショナルなザリス先生にお願いして、魔界再構築のお手伝いをしてもらうのですー」
 ふん。
 私は鼻で笑う。それは諦観だったかもしれない。ほれみろ。やはり世界はこうやって、私に一方的な文脈を押しつけてくるのだ。
「んー。ザリスー、納得いかない顔ですー?」
 とはいえ。こいつを蹴っ飛ばして申し出を断ったところで、それでどうなるわけでもあるまい。望むと望むまいと、文脈はいつもそこにあるのだ。文脈に唯々諾々と従うのは御免だが、文脈に真っ向から反抗すれば満足いくわけでもない。結局のところ、私がなんらかの確信を持たない限り、この不愉快は続くのだ。
「はん、いつもの顔じゃ。私はなにひとつ納得なんかしとらんからな」
「ふーん」
「で、さしあたってどないすんねん」
「そうねー。喋ってる間に基幹部分のメンテナンスは終わったから、そろそろセーフモードから通常モードに復帰するです。通常モードへの復帰は、現象界的には眠ってる魔王様が目覚めること実現されます。ほい」
 ほい、っと妖精が手を回すと、ベッドの中に縮こまった魔王が姿を現す。私のよく知るアホ面は、夢心地の中でますます緩みきっている。
「ほう。こいつを起こしたら、魔界の目えも覚めるんかい」
「そゆことー。ちなみにこの復帰手順は、セーフモードの仕様決定に一枚噛んでた再起動前のザリスが仕込んだ遊び心ねー」
 なるほど。私の知らないいつかの私め、なかなか粋なことをする。どうすれば私の溜飲が下がるか理解し、実に適切な置き土産を残してくれた。世界を開く栄光なんぞに興味はないが、この一撃は単純にウサ晴らしになる。私はげんこつを高くに構え、魔王のドタマに狙いを定める。言葉あれ。天地開闢の一撃が、魔王に向かって振り下ろされる。