行間商売

「おまえのせいだ。あの子が両親と暮らせなかったのも、満足に学校に通えなかったのも、あの子の手がひびわれて、使うたびに痛むのも、あの子の青春が家事と労働に費やされたことも、あの子の傷が絶えることがなかったのも、あの子が好きな人と一緒になれなかったことも、あの子が幸せな人生を生きれなくても、それをひとりで受け止めて、誰を責める事もなく死んでいこうとしていることも、すべて、すべてがおまえのせいだ」
そう言って若い男はナイフをポケットから取り出した。
怪訝な顔で若者を見ていた壮年の男が顔色を変える。
「ま、待て。おまえは誰だ!」
若者は男をまっすぐに見据えて答える。
「ずっとあの子を見ていたものだ」
「あの子? だ、誰のことを言ってるんだ」
「おまえにとっては、おまえが傷つけてきた人々の一人でしかないさ。これまでに食べたパンの数を覚えてないように、おまえは傷つけた人々を覚えてはいない。だからさっきおれは教えてやったんだ。おまえがいかなる罪を犯し、死んでいくのかをな」
「し、死……? や、やめろ! おい、誰か! 助けろ!」
「死ねッ!」
狼狽し、若者に背を向けて逃げようとした男に、若者が体ごとぶつかるように迫り、

「はい、ストップ」

女性の声と共に、逃げようとした壮年の男が停止した。同時に若者のナイフが空間に縫いとめられたように停止し、若者はナイフに体をぶつけるようにして止まった。
そして二人の間に、いつの間にか二人の男女が姿を現している。
「何だこれ…」
若者は、それらのことに驚いていて呆然としている。
「『しおり』を挟んだのよ」
現れた女の方が若者に語りかける。
若者ははっと気がついた顔をして言った。
「もしかして、警察?」
現れた女は腕時計の方を見ながら事務的に答える。
「はい、そうです。残念でしたね。えー、17時22分、278ページ、12、3行目行間、現行犯逮捕。ミカギリ巡査、その男を拘束して」
「はい、先輩」
ミカギリと呼ばれた男が手錠を持って若者に近づく。

「ちょ、ちょっと待って」
若者はナイフから手を離し、両手をあげながら声をあげる。
「え、どういうこと? おれ、逮捕されちゃうの?」
「そうよ。あなた、登場人物を殺害しようとしたのよ」
「え、でも、そうだ。ちょっと待ってください!」
手錠をかけられる前に、若者は慌てて、後ろのリュックから少し折れ曲がったプリントの束を取り出すと、二人に差し出した。
「こ、これ……」
ミカギリは若者に手錠をかけてしまいながら、差し出されたプリントの文章を読み上げる。
「えーと、『憎いあいつを殺しちゃおう! ストレス発散ツアー!』……何ですかこれ」
「だから、ツアーですよ! そこにいるあいつ! おまわりさん、この物語読んだことあります? ほんとに憎たらしいヤツで、あいつにヒロインがひどい目にあわされるんです。で、ファンの間では、殺してやりたいキャラNo1なわけですよ」
「だからって、登場人物に危害を加えたら犯罪でしょうが。というか、かなりの危険事項でもありますよ。子供だって知ってることです」
ミカギリが呆れたように、若者を見る。若者は慌てて付け加える。
「でもでも! あいつは死んじゃうんですよ。たしか、ツアーの人の説明だと、『原文』ではあいつの死に方は描写されてなくて、『暴漢に殺されて死んだ』ことだけが描写されているから、殺すのは誰でもできるんだって……」
「典型的な行間商法ね。あなたね、だまされたのよ」

もうひとりの、ミカギリに先輩と呼ばれた女性警察官はため息をついて、若者を見た。
「虚構機関は、行間も完全に現実化する。従って、本文に描かれてなくても『暴漢に殺された』のなら、『暴漢』も現実にいるし、『暴漢による殺人』も起こるはずなのよ。それを旅行者がとって代わっていいはずがない」
「え? じゃあ、何で」
と疑問の声をあげたのはミカギリ。
女性警察官はまたため息をついて、
「だから、その子を騙したツアーの人とやらが暴漢を拘束してるのよ。つーか、あんた、さっき業者つかまえたでしょうが……ったく。行間における『物語の要請』の力が弱いのを利用して、旅行者に登場人物の役をやらせる。物語に大きな乱れが起きなければ、わたしたちにも見つかりにくいしね。そういうのがいわゆる行間商売。さて、わかったかしら」
女性警察官の話をおとなしく聞いていた旅行者の若者が、慌てて声をあげる。
「でも! でもでも、おれ、知らなかったわけだし!」
女性警察官は哀れみをこめて若者を見て、
「まあねー……でも、さっきそいつも言ったけど、登場人物に危害を加えるなんてのは、虚構法の大原則に触れるわけだし、しかもあなたの場合、明確な殺意もあるから……ま、あとは裁判でがんばってよ。あたしの仕事はここまで」
さっと男に背を向ける。
ミカギリは若者の肩に手を置いて、
「まあ、登場人物に恨みぶつけてもしょうがないでしょう。こいつだって、作者がそう書いたから悪いことしたわけだし……虚構の登場人物でもね、人殺すってのは、とても嫌なもんなんですよ」
若者の顔を真面目な顔で見つめた。

「そ、それは……でも、それなら原作者こそ罰せられるべきじゃないんですか!? 虚構法の原則って、『虚構内人権の保障』でしょ! この物語はヒロインの人権を踏みにじってる。虚構法が侵害されてるじゃないですか!」
女性警察官は三度ため息をついて、顔だけ振り向いて言った。
「そうかもしれないけど、それを決めるのはわたし達じゃないの。決めるのは『委員会』のえらい人達。まー、あなたみたいに本当に敵役を殺そうとするくらい、入れ込んじゃってるファンがいる物語が、有害認定されるかっていうと……ね。ほんと醜い世界よねー」
「せ、先輩…!」
ミカギリの言葉に我にかえったのか、女性警察官は口調を元に戻して言った。
「では、ミカギリ巡査。犯人を転送してください」
「了解」
ミカギリ巡査が手元のコントローラを操作すると、すっかり意気消沈した若者の姿が足元から消えていく。うつむいた若者の顔が消える直前に、女性警察官が言った。
「君、安心なさい。この本、あたしもだいぶムカついたから、実は前にこの作者一発殴っといた」
若者が顔をあげる。ミカギリ巡査も一緒に驚いて女性警察官の顔を見る。

「ちょっとだけ、スカッとしたわ」
そう言って、女性警察官は子供のように笑った。