鴨川ハンニバルの所業、大いに食べ且つ飲むの事

 町外れの廃工場──夕焼けの赤々とした光が、訪れる人とて絶えた廃墟に降り注いでいた。幾年の月日のうちに壁は破れ、蔦草の這うコンクリートの地面はかろうじて昔年の面影を伝える。廃墟というよりは遺構といったほうがいいだろうか。
 その廃墟の正面に今、一台のベンツが駐まった。あたりの様子を窺うようにしばらくの間をおいてドアが開くと、中から屈強な男が数人現れる。全員がよく似通ったスーツ姿で、一人は銀色のアタッシュケースを両手にひとつずつ提げている。きょろきょろと見回していたがようやく壁の破れ目を認め、そこから中に入っていった。
 廃墟の中はふしぎなほどがらんとしていて、窓から差しこむ残光が、床を区切るように奥へ奥へと導いている。その一番奥まった暗いあたりにベッドサイズほどのソファーがうしろ向きに置かれていた。ソファーにはどうやら二人の人間が座っているらしい。
 スーツ姿の一団は警戒しながらそのソファーへと近づいていく。その間わずか十メートルほどのところで足を止めた。
「取り引きしたいというのはあんたか」
 ドスのきいた、そのくせ落ち着いた声で呼びかける。聞く人が聞けばその声だけで彼が日の当たらない裏の世界に属する人間だとわかるだろう。
 呼びかけに応えてソファーの二人はすっくと立ち上がる。片方は妙に背が高い。そのままこちら側に回りこみ、男たちをひたと見据えた──対峙する二人は、ともに女であった。
「そう、取り引きしたい」
 背の低いほうの女が不敵に告げる。だがその姿は……まだ少女といっていいほど幼かった。小柄な体に肩までの長さの髪、しかも服装はあろうことかセーラー服である。かたやもう一人は上から下まで一分の隙もないパンツスーツ姿で、こちらは無造作に髪を束ねていて、そのそっけなさが長身と相まって一種油断のならない雰囲気をかもし出している。
 二人の姿を見て男たちはざわついた。
「……お嬢ちゃんたち、これは何の冗談かな?」
 男の中から一人が前に出る。無理に作った笑みが若干引きつっている。
「冗談も何もないわ。こちらには売りたいものがある。あなたはそれを買う。純粋なビジネスの話よ」
 背の低いほうの少女も一歩前に出る。と、その表情に奇妙な点がある。向かって右の目が堅く閉じられ、目蓋の上に傷跡が走っているのである。
「ビジネス……ふん、ビジネス。なるほど。お嬢ちゃんはおじさんとお仕事がしたい」
 威圧するようにずんずんと前に出る。
「でもねぇ、女の子がたった二人だけで、おじさんたちを相手にできると思ったのかい。ああん?」
 男がそれを口にした瞬間──。
 ぎらりと青い光が走った。まばたきをする暇もあらばこそ、男の顎に日本刀の切っ先があった。長身の女が一瞬のうちに間合いを詰め、どこから取り出したのか刀を突きつけたのだ。まさしく一瞬の早業であった。
「口を慎め」
「な……」
 色めき立った男たちが慌てて懐から銃を取り出して女に向ける。しかし先ほどの鮮やかな一閃に比べるべくもなく、がちゃがちゃと騒々しいばかりで品の欠片もない。
 一瞬の攻防に廃墟の時が止まる。
「……ま、まて、まて!」
 男は刀を突きつけられながらも手で仲間を制する。仲間はどうしたものかとしばし逡巡しつつも、このまま膠着状態を続けていても仕方がないと、一人、また一人と銃を下ろしていく。
 男の額に汗が浮き出る。
「片目……隻眼の……そうか、あんた、鴨川組の」
「小娘、刀を下ろしなさい」
 小娘と呼ばれた長身の女が刀を下ろす。それを出したときと同じ素早さ、そして優雅にすら見える仕草でどこかに仕舞った。よく見れば腰に漆黒の鞘がある。
「部下が粗相をして悪いわね」
 隻眼の少女がニヤリと笑う。一歩間違えれば修羅場と化していただろうに、こちらは想定内だったというように倣岸不遜な態度だ。そこにはいくつもの死線をくぐってきた者だけが具える独特の余裕があった。
「というわけでビジネスの話よ。関口さん、だったわね。話は聞いていただける?」
 刀から開放された関口は、先ほどとは打って変わって慇懃な態度で、
「め、滅相もない。鴨川のお嬢さんと知っていればあんな失礼なことは言いません」
 心底ほっとした様子で息をついて汗を拭う。
「しかし、どういうことですか、鴨川組はもう……」
 そう、鴨川組は消滅したはずだった。五年前、組同士の抗争の中で、仲介に入った鴨川組を逆恨みした別の組の人間によって、組長以下幹部の面々が殺害されるという事件があった。幹部のいなくなった鴨川組は蜘蛛の子を散らすように消滅。ただ、組長の忘れ形見の娘がどこかに生きているという噂はあったが……。
 その娘が今自分の目の前にいる少女なのだ、と関口は瞬時に悟った。炎上する屋敷からからくも脱出することができた娘は、襲撃のために片目を失ったと聞いたことがある。
「ふふ、そのことなんだけど」
 腕を組んだ隻眼の少女は続ける。
「どうするかはまだわからないわ。組を再興するかもしれないし、しないかもしれない。お父様の恨みを晴らして跡目を継ぐ、なんて子供じみた考えもない。ただ、どうするにしても生きていくためにはお金が必要でしょう。小娘、ここに」
 帯刀した女がソファーから一抱えほどある木箱を持ってくる。それを地面に置き、蓋を開けると、ビニール袋に小分けされた白い粉がおが屑に埋もれていた。
「純正のハピ粉。純度は高いと思うけど……確かめてみて」
 そのひとつを破き、関口に渡す。
 関口は、受け取ったビニール袋の破れ目に指を挿してぺろりと舐めると、途端に目を見張った。
「こりゃあ……これは……」
「気に入ってもらえたかしら」
「気に入るもなにも……今どきこんな質のいいハピ粉は手に入らない」
 昨今の取締法の強化で、日本に入ってくるハピ粉のルートは壊滅している。かろうじて出回っているのはきわめて粗悪なもので、それすらももはや市場に出回ることが少なかった。
 その貴重なハピ粉を、まだ年端もいかない少女が大量に用意してきたのだ。
「中国渡りですかね」
「……言うと思う?」
 なるほど、鴨川組がなくなったとはいえ、組の持っていたルートまでなくなったとは限らないのだ。どんな経路で日本に入ってきたのかはわからないが、そのルートを鴨川組の忘れ形見が相続していたとしても不思議はない。十分あり得る話だ。
 ごくり、と喉が鳴る。
「わかりました。お取り引きしましょう」
 関口が仲間に合図する。木箱の横に届けられた二つのアタッシュケースには、ぎっしりと札束が詰められている。と、そのすぐ横に音もなく近寄った女が、刀の柄に手を置いて不正はないかと警戒している。
「お嬢さん、お連れの姐さんをどうにかしてくださいよ。危なっかしくて商売もできやせんぜ」
「ちゃんと指定通りあるようね」
 ははは、と関口の喉から乾いた笑い声。
「これでも安いくらいです。こんな上等のブツならもっと高く売れる」
 それはサービス、と言って現金を確かめると、鴨川組のたった一人の忘れ形見の少女は、その日初めて歳相応のとびきりの笑みを浮かべて言った。
「それじゃあ──商談成立!」
 
「カンパーイ!」
 中華料理屋の奥まった一室に祝いの音頭が響いた。
 七里谷中華飯店──夜も更けてL字型のカウンター席には一人の客もおらず、主人はせっせと奥の小部屋に料理を運びこんでいる。寒々とした店内スペースとは対照的に、その奥の一部屋だけが熱っぽい祝賀ムードに包まれていた。
「おじさん、青島ビール追加。老酒も!」
「女子高生が酒を飲むのは、どうかと思うんだよねえ」
 主人の悲嘆の声を聞きながら鴨川組の忘れ形見──鴨川理沙はビールの栓をすぽんと抜く。その向かいではスーツ姿の坂田小娘(本名)が正座して、難しい顔で魚と格闘している。こうなっては骨格標本が作れるほどきれいに平らげないと気が済まないのが小娘(本名)の性格だった。
「あんたさぁ、そんなちまちま食べてたら料理が冷めるわよ」
「……」
 もぐもぐと無表情に食べ続けるその背後、壁の隅に、愛用の刀が立てかけられている。
 理沙は老酒の杯をくっと一息に干して、
「でもおじさん、たった三百万でいいの?」
 と傍らで一緒になって飲み始めた主人に訊ねた。
 主人は顎を撫でて、
「十分すぎる。ハピ粉の仕入れ値なんざ元々タダみたいなもんだ」
「ふーん、相変わらず欲がないのね」
「むしろ俺は、鴨川の親分から預かった娘っ子の身が心配だよ」
 と深く溜息をつく。
「それは私が好きでやってるんだし」
「学校に行かないわヤクザ相手に渡り合うわ、誰がどう見ても監督不行き届きどころじゃないだろう。世話になった親分に申し訳が立たん」
「ブツを用意しておいて何言ってんのよ」
 苦悩の色を浮かべて酒を舐める主人を尻目に、理沙はひょいひょいと点心を口に運ぶ。小娘(本名)と違ってこちらはどこまでも奔放に箸を動かしている。箸が触れたものは全て食べ尽くしてやろうという鬼のような気概さえ窺える。
 そのまま点心を酒で流しこんで続ける。
「まあでも、市場に出回るまではしばらく控えないと、値が下がっちゃうわね。それにチンピラ相手のシノギにも飽きてきたし」
「頼むから恐ろしいことを言わんでくれ」
「なにかこう、もっとときめく小遣い稼ぎはないの?」
 隻眼をきらきら輝かせる表情からは彼女が紛れもなく十七歳の少女であると窺い知れるが、やっていることがことだけに、心の底の泥沼にどんな外道を潜ませているか知れたものではなかった。
「ときめくつってもなぁ……」
 眼前で際限なく増える青島ビールの瓶をまとめつつ、主人は酔いの回ってきた頭でぼんやりと記憶を探った。これだけ鯨飲しているのに親子ほど歳の離れたこの娘はなぜ酔わないのかふしぎでならなかった。
「そういやぁ……」
「うん」
「いや、これはシノギというか、オカルト話なんだけどな」
「うん」
「話半分で聞いてほしいんだけどな」
「早く言いなさいよ」
「うむ」
 頷く主人に理沙の期待の視線が向けられる。
 そこで彼は、少し前に情報屋から仕入れたうさんくさい話を不承不承始めた。曰く、この付近に産業スパイが逃げてきた。町に入ってからのスパイの動向は不明だが、警察ともヤクザとも繋がりの薄い妙な連中が嗅ぎまわっている。その様子から察して、追っ手の側もまだスパイを見つけ出していないのでは。云々。
「ハイパーロア、だったかな。そんなものをどっかから持ち逃げしてきたらしい」
「なにそれ」
「わからん。魅惑の新技術か、なにかのデータか、どうせそんなところだろう。ガキの戯言じゃあるまいし、笑っちまうよな」
「産業スパイっていっても……それだけじゃわかんないわよ。他に情報はないの?」
「俺も武器商時代の知り合いに聞いただけで他ではとんと聞かないな。ただ最近妙なやつらがこの辺をうろつくようになったのは確かだ」
 ふーん、と理沙。
「その情報屋に直接話を聞きたいんだけど」
「昨日からアーカムの古本市に行ってる」
「うっさんくさいわねえ……」
 小娘(本名)が魚をきれいに平らげて両手で杯を傾けているのを見ながら、理沙はしばし思案した。何かいつもと違う事態がこの近くで進行している。なのにそれに関する情報がいまいち出てこない。これではいくら面白そうな話とはいえ取り付く島もない──そこにはまだ見ぬ楽しい世界が待っているかもしれないのに!
「だからな、明日からは素直に学校に行って……」
「よし、小娘」
「はい」
 名前を呼ばれて小娘(本名)がすっと姿勢を正す。こちらにも酔いの気配は微塵もなかった。
「情報が出ないなら情報を集めましょう。そうね、捨て駒になるようなのはいないかしら」
「横井姉弟、が適任かと思われます」
「あの双子ね……うん、あの二人ならちょうどいいわ。適度に引っかきまわしてくれそう」
 理沙は隻眼に暗い炎を燃やしてうんうんと頷く。
「おい、一体何をする気だ……」
 自分の与り知らぬところで話が進む嫌な気配に、主人は慌てた。この流れはまずい。理沙のことだから本気で何かを始めるつもりだ。こうなってしまうと暴走するリニアモーターのように歯止めが利かないのは経験上痛いほど知っている。馬鹿な話を聞かせるんじゃなかった。
 ニヤニヤと邪悪な表情の少女は、今すぐにでも厄介ごとに背面ジャンプしていきそうである。
「決まってるじゃないの。双子がそのハイパーなんとかを持っている、ってデマを流すのよ。そうすればそれを狙う連中の目が双子に向けられる。情報も集まってくる」
「待て待て待て、いいのかそれで! とばっちりを食うのはそいつらだぞ!」
 理沙はふふんと鼻を鳴らして、
「いいのよ、あの二人は私も嫌いだし、ちょっとやそっとでは死なない程度の胆力はあるわ。せっかくだから使えるものは使っておきましょう」
「……」
 絶句する主人をよそに理沙と小娘(本名)は何かを打ち合わせ始める。
 七里谷中華飯店の主人はこのとき、荒唐無稽な話だからと鴨川理沙にうっかり餌を与えてしまったことを後悔し、そして、もしかしなくとも鴨川親分から預かった娘が実は悪魔だったのだと思い知り、深く深く、心の底から戦慄したのだった。