蛸明神

 天明六年、いわゆる「天明の大飢饉」として知られる飢饉の際の話である。
 河足地方は比較的に飢饉の影響が少なく、他の地方より豊かな暮らしを続けていた。しかしそこに目をつけた他地方からの流入農民が、暴徒の体を成して略奪の限りを尽くし、およそ二年に渡って河足の人々を苦しめた。(興禄記)
 ある時、藩の尽力によってようやく暴徒は鎮圧され、名越川の河川敷で御成敗が執り行われた。御成敗の後、罪人はそのままの姿で晒されたと伝える。
 その夜半。
 死体から流れ出した血を吸うために無数のタコが海から遡上し、川はまるで「稲穂の如く」ざわめいたという。人々はそれを気味悪がり、考慮の末、川に大量の砂を撒くことにした。結果、吸盤に砂を詰まらせたタコは海に戻ることができずにすべて死んでしまったらしい。それからはもう一匹のタコも現れることはなかった。
 死んだタコの祟りを怖れて祀ったことから、今でも名越川の河口に「蛸明神」という小さな祠が残されている。