紀塔ヶ池原遺物

 "紀塔ヶ池原"とは紀津に住をなす一家系の姓であり、この字にて"きとかちわら"と読む。紀塔ヶ池原姓が公称されるようになったのは明治初期。明治3年の平民苗字許可令において、当時の家長・紀塔ヶ池原復槍*1が届け出てからである。由来については判然とせず、江戸期の戯書にある幽霊名字でないかという説もあるが、確とした話ではない。復槍自身の言葉によれば、紀塔ヶ池原姓は一族が代々私称してきたものであるとされる。しかしこの主張に関しては復槍と同郷の者の言によって否定されている。

 紀塔ヶ池原復槍は一代の変人であり、表題の紀塔ヶ池原遺物の建造等、数々の偉業、奇行によって紀津に名を残した。彼は静岡(旧駿河)の農家の出であるが、若年の間に富を築いて紀津に移住している。豪農というわけでもなく、一介の農民に過ぎなかった復槍がいかにしてそのような財をなしたかについても謎が多い。全国、あるいは外国にまで手を伸ばした山師まがいの取引をその財源とするのが一説であるが、それだけではとうてい説明できない権勢を奮ったことは記録に確かである。これらの仕事の秘密は後代に継承されず、彼が子孫に残したのは莫大な財のみである。

 復槍は紀津に移ってまもなく、紀津市の四分の一を占める山林を買い占めた。この山林の中心をなす山を数池峰山*2と言う。復槍はここで怪しげな発掘作業を行い、同時に石彫職人を雇って数百の石像を造らせた。また独自の宗教観に基づいた数々の文献を作成し、その年代を偽るといったことも行っている。復槍は数池峰からの出土品を捏造するなどし、彼の宗教が古代紀津に由来するものであると主張した。

 当然、このような主張は受け入れられるものではなく、一部のオカルト学者がまんまと釣られて馬鹿を見るといった程度の結果に終わったようである。またどうやら復槍自身も、これらの主張が本気で通ると考えていたわけではないらしい。自身の宗教観についても、単なる道楽と笑い飛ばすような言動をしばしば残していたとされる。

 数池峰山林に並ぶ「七十姉妹像」をはじめとしたこれらの創造物を、市の史跡として名所化してはどうかという話が持ち上がったことは一度ならずある。しかしそこが今も紀塔ヶ池原家の私有地であること、怪しげな由来が市のイメージアップに繋がるとは考えづらいこと、そもそも紀津という土地において観光産業に力を入れるような理由が存在しないことにより、このような動きが実現したことはない。また、当の紀塔ヶ池原家もこれらの遺産をどうこうしようというつもりはないらしく、「紀塔ヶ池原遺物」と呼ばれるこれらの石像群は、実質無管理地帯となった数池峰にてごく僅かの好事家を喜ばせるのみとなっている。

 なお昭和11年発行の地域紙にて、山寺修道なる地史学者が「いくつかの七十姉妹像の制作は、少なくとも室町時代以前である」とする証言を残している。山寺修道については、当時の旧帝大にそのような人物が在籍していたことは確認されているが、それ以上のことを語る文献は確認されていない。地史学者である山寺修道がなにを根拠にしてこのような判断を下したのか、平成代を生きる我々には預かり知れぬところである。

*1:きとかちわら またかず

*2:かずちねさん