名越堤防 人柱祠

昭和十一年九月十六日(水曜日)河足新報

台風通過の河足地方あわや大惨事 名越堤防決壊す
十三日台風通過に見舞われた河足市東舟木にて名越堤防に不穏な亀裂発見さる。付近住民があらかたの避難を終えたのち地鳴動しじりじりと決壊。現場は名越第二橋右岸起点より数十米川下。幸にも川と堤防の間に若干の余あり被害些少。水除に障ない地点のため好天を見計らい復旧護岸工事に取掛かる。復旧まで第二橋の通行を制限。

昭和十一年九月二十一日(月曜日)河足新報

名越堤防決壊地点で人骨多数出土
昨報、名越堤防右岸の復旧工事において決壊地より多数の人骨が出土した。骨に驚愕した護岸夫らの報に識者が集うも調査進捗するや古人の遺骸と発覚。築堤当時の人柱であろうと推定さる。工事は発掘を待って再開見込である。

昭和三十二年三月八日(金曜日)河足合同新聞

名越堤防に人柱祠
河足市東舟木の名越堤防脇にこのほど人柱供養の祠が設置された。同地では戦前の台風被害による決壊の際に多数の人骨が出土しており、調査の結果、江戸初期に人柱となった人々の遺骨ではないかと推測されている。鎮魂の神事を務めた河足八幡宮司の北見富士夫氏は「戦中戦後の混乱で供養が遅れたがこのたびの祠建立でようやく肩の荷が下りた。後世に伝えて先祖を敬う心を育んでほしい」と語る。

昭和四十五年撮影・河足合同新聞社提供