あたしが惨めに這いずり回ってるのを眺めるのがそんなに楽しいか魔界チュートリアル2


 魔界の食べ物はけったいだ。流動食を練ってもう一度固めたような、なんだ、これは一体なんなのだ。

「魔界には肉食の文化がありませんー。自然界がはなからエネルギー問題を克服してるので、放っといても消費される以上の栄養を供給してくれるのです。ユートピアですね。だから魔界と書いてディストピアとルビを振ります。円熟に満たされし場所こそが生命の隘路にして終点と心得よ! ずべし!」

 一城の魔王であるところの妙ちくりんな小娘が得意げに語る。

「知らんがな」

 フォークらしき三叉の食器で突き刺して、そのゼリー状の物体を持ち上げてみる。

「……黄色い粘液……」

 正直言ってお腹が痛い。

「味も食感も悪くないと思うんですけどね。もっちゃもっちゃ」

「あんたは行儀が悪い」

「魔界においてテーブルマナーは悪徳と知れ! いえ適当言いました。さて、それでは腹ごしらえしながら魔王ワレリィ様の魔界チュートリアル第二回!」

 うんざりだ。

 わけが分からない。わけが分からないなりに小説のセオリーに従って状況を説明すると、さっき突然この魔界に生まれ落ちたらしい生後ゼロ日の私は、このいけすかない魔王の言うがまま車椅子ガラガラ転がして食堂に連れられた。これがいわゆる魔王城の中らしく、外壁は黒く歪んだ素材不明の弾力を帯びている。照明は薄暗いし、床もどことなくぶよぶよするしで不愉快極まりない。およそ意識を持った全ての生命体の平衡感覚や立体感覚を脅かす作りであり、こんなところで長く暮らせば間違いなく気が狂う。つまり私には、この魔王を狂人と罵る正当な根拠があるわけだ。

「ちなみにこの食堂は魔王城初訪問の一見さんをビビらせるために様々な趣向を施したびっくりレストランです。嫌なお客が来たらここの食事でもてなしてたいそう気分を滅入らせて二度と来るかと思わせると共に、我々狂った魔界の支配者の恐ろしさいびつさ名状しがたさグエヘヘヘをその眼窩と肺腑に刻み付けて威圧感を与えるのです。きゃあ料理の中に三年前に生き別れた犬のピーターの眼球と三半規管と愛用のホネが」

「適当言いくさって……」

「いや今言ったことは全部本当ですから。あるいは適当なのは私じゃなくてこの魔界そのものですから」

 魔王は串に突き刺した犬の眼球のようなものをれろんと食べる。その口の中で、硝子体のような何かがぱしゃんと弾ける音。瑞々しい謎の汁が魔王の口腔に広がっていく、それがなぜか自分のことのように感じられ、私は胸が悪くなる。硝子体って弾けるのか? とか、よく分からないが、とにかく私も徐々に理解しつつある。この魔界は適当なのだ。

「そうです。この魔界は適当なのです」

 ドヤ顔の魔王。思考を読むな小娘。

「言いっこなしです。話はさくさく進めた方が私もあなたもハッピーなのですよ? 展開の融通を利かせるためなら、心も読むし物語補正もつくのが魔界です。心臓を鉛の弾で狙われた主人公は、ヒロインからもらったペンダントで命拾いするんですよー」

「どぐされが」

 いや……。苛つくな。思うつぼだ。

 目を閉じる。胃が収縮するように痛むのを、なんとか無視して考える。私の置かれたこの状況自体が、魔界の適当性の発露なのだ。だとすれば、そんなものに本気で取り合って気分を害する必要もない。心を平静に保つのだ。それはここにあり、またそれはここにある。つまりあるものはあるものでしかなく、視野と視座の選び方によって無限の変貌を遂げる多様性はあるものの、しかしそれはまた唯ひとつのものでしかありえない。万象すべからく全にしてかつ一であれ。決。

「意味わかって言ってます?」

「うっさい。とりあえず言葉で考えるのが性分なんじゃ」

「さて」

 大食らいのくせに、この魔王は食事が遅い。私が黄色い粘液ゼリー/とぐろを巻いた細長い鉱物(食感はカリカリ)/常温で固体化と液体化を繰り返すスープ。スープ? の全三品を胃に収めても、魔王はいまだにもっちゃりもっちゃりやっている。ときどき、あ、アタリの城内宝の地図だー、とかぬかして口の中から出した何かをポシェットにしまい込む。

「説明すると言いつつ全く説明する気のない私の態度から分かるように、」

「だから知らんちゅねん」

「げほえ。説明すると言いつつ全く説明する気のない私の態度から分かるように、またあなたの推測したとおり、魔界はこういうところです。本質がない、というわけではありません。全き神の如き存在なら、この魔界を一意的に説明できる形式で記述することが可能でしょう。ただし、その術は私たちにありません。物理法則による宇宙の記述は既に一意的な意味を持たず、テキスト描写と同程度の確度にまで引きずり下ろされています。そして相対的に宇宙を記述する形式としての強度を増したのが物語の文脈です」

「あんたん話は分からん……分からせる気ないねやろ」

「うえあ。実はそれもその通りで、説明的な記述はおそらく魔界の本質を有効に伝えないでしょう。私がこの魔界の国土やら環境やら文化やらを逐一語って詮ないことですし、それで用が済むならわざわざ口頭で伝えずにパンフレットでもお渡ししてます。いちおう最低限の前提として伝えておくと、この魔界はあらゆる並行する世界系をある種のフィルタによって一度に掬い取った要素の寄せ集めであり、可塑性、恣意性、論理的破綻の許容、そういった性質に富みます。とゆうような設定的に重要っぽい話も軽く流しちゃうのが今の私の気分でして、つまりお分かりですね。私が伝えたいのは……」

「文脈」

「ですね」

 私は数瞬、睨みつける。が、魔王は涼しい顔。

 はん。わざとため息をついた私は、自分の沈鬱な気分に気づいていないような振りをして、車椅子にふんぞりかえる。この会話だって、今まさに私が発した「文脈」という受け答えだって、既に何かの文脈の上にある。気にくわない。天井の仄暗い照明(天井に、何らかの発光物質が埋め込まれているらしい)が、私の気分に合わせるように光を収斂させるのも気にくわない。現象とは、そんなに都合のいいものではないはずだ。

「ザリス。平行世界に偏在するあなたの原型は、現象のままならなさにこそ苦しんでいたはずですよ。この魔界の恣意性すらも、ザリスにとってままならない環境の一部だというのは理解できますけど……ああ、いえ、まあいいや。分からん話をしても分からんですね。分からん前提で話してるので分からんくてもいいんですが、とりあえず分かる話もしときましょう」

「そっちのがうちとしても嬉しいけど」

 大仰な姿勢のまま、そっぽを向いて行儀悪く足を組む私。なぜこんな、虚勢をはるような真似をしなくてはならないのか。いや、待て。足?

「あああ、そんな車椅子キャラの前提を覆すような行為を」

 動揺を顔に出さないのが精一杯だった。しかし、心は読まれているのかもしれない。私の足が、動く? ふざけるな。私をこんなわけの分からないところに放り出して、しかも唯一の身体感覚まで取り上げるのか。

「魔界やったら……こういうこともあんねやろ。で?」

「やーですね。ザリスはもっと重圧に押し潰されそうで這いずってる姿の方がかわいいのに……」

 言われなくても酷い気分だ。たぶん見えている以上に、私の気分は沈鬱としている。やめろ、自分を大きく見せようとするんじゃない、と囁くのは私の中の最も正しい私だ。あとで苦しむのは自分である。

「エネルギー問題が解決状態にある魔界は基本的に怠惰の国ですが、暇人の余興として宇宙の本質を追求していく動きはあります。なまじっか生存権が確立されてるせいで、自然界の闘争やら権力獲得やらの既存の価値、古き価値が意味をなさなくなってしまった社会と言えますね。ザリスみたいにいきなり人格だけが魔界に召喚されて、ルーツや本質が外の世界系にしかないような稀人にとっては特にそうです」

 考えたくもない話。私は何を聞かされているのか。理解できるようには語られていないし、理解する必要もないはずだ。しかし、私の中のどこか秘められた部分が、こいつの話に興味深く耳を傾けている。

「世界系を束ねた時に見えてくる構造。取りも直さず、それは写像としての魔界を生成する元であり、私たちはそれを神話と呼ぶわけです。つまり、魔界の本質を探究する行為とは、神話の発掘と読解を進める作業に等しいのです。ザリス、この魔界にあって定職もなくルーツもアイデンティティもないあなたには、とりあえず神話の編集を手伝ってもらいます」

 私は最初からずっとげんなりしている。魔界だろうが他のどこだろうが、私にはあらゆる意味での生存の陽の側面を享受できる構造にない。それが私の神話構造だというのであれば、なるほど。たしかに私という人格は、地獄のようなおんなによって出来ているのだ。