河足市猫町事件のカケラと真相のカケラ

 気がついたとき燕子花時子(カキツバタトキコ)は身動きのできない状態にいた。ベッドに寝かせられているらしいこと。体中を大きなベルトのようなもので固定されていること。水中ゴーグルを塗りつぶしたようなもので視界をふさがれていることだけはなんとか理解できた。
意外だったのはさるぐつわがされていないことだった。多分、大きな声を出しても聞こえないような場所にいるのだろう。河足町ならそんな場所はすぐに作れるから、不思議ではない。
時子は自分で思ったよりも冷静だった。時子にはどこか恐怖感というか生きるための本能が欠けているところがあった。幼稚園の頃ジャングルジムから落ちて頭に大けがを負ったことがある。そのときも泣きはしなかった。そのせいで時子が怪我をしていることを周りの人間が気づかないくらいだった。
そのとき時子はまるで自分の体が自分のものではないような感じがした。けれど、それはそのとき突然やってきた感覚ではなく、時子が自然と持っていた性質だった。
痛みを感じないわけではない。感覚が狂っているわけではない。ただそれを受け入れることを当然と思っているだけだった。
ただ、そのことは周りの人間には伝わりにくく小さいときから友人は少なかった。
だから、今置かれている状況もすぐに受け入れることができた。
最悪、変態に拷問されたあげく殺されるだけじゃない、その程度にしか感じていなかった。
やがて、一人の人間がやってきた。
ああ、この人が私を殺すんだ、どうせ殺すなら顔くらい見せてくれてもいいのに。
その人間は顔どころか一言も発しなかった。右手の二の腕のあたりにゴムのようなものがきつく巻き付けられた。大きな手が時子の手を包み込む。強く握りこめという合図だろう。そして、肘の内側あたりを人差し指でまさぐる。少し、くすぐったかった。
なんとなく、この人の考えていることが理解できた。予想通り太い静脈を見付けると針を突き立てられた。
アタシは実験体なんだ。へんなクスリを打たれて殺されちゃうんだ。ブレヤム・ヤングの毒殺日記を思い出した。毒物に興味をもった少年が家族を実験体にして、殺す話だ。一つ疑問なのはなぜ、こんなまどろっこしいことをするのだろうということだった。
詳しくは知らないが毒物の研究は様々なところでされているだろう。医学に詳しいなら論文を読むなり自前で研究すればいい。それとも公の場で研究できない毒物なのだろうか。死因の特定が難しくなるとか。いずれにしてもこれから殺されるのだから関係ないか、とまた時子は他人事のように考えた。
「おかしいな、そろそろ意識を失ってもおかしくないんだがな」
「・・・」
「2000ml。っていうか致死量超えていると思うんだけどな」
 2000mlペットボトル四本分。それだけ注入しても意識すら失わない毒物って結構だめじゃないのか。一体この人は何がしたいのだろう。
 突然まぶしい光が目に入った。しばらく焦点があわなくてまばたきをする。
「君は一体何者?」
 目の前に痩せぎすで三白眼の男がいた。年齢は30くらいだろうか。老けて見えるだけでもう少し若くても不思議ではない。
「燕子花時子と言います。河足北高校の二年生です」
「いやそうじゃなくてさ」
 目の前の男はどうしてもあてはまらないパズルのピースをもてあましているような顔をしていた。男は人差し指で時子に見てほしいものを指し示した。指先には赤い液体が入った袋が並んでいた。
 そうか、この男は注入していたのではなく、血を抜いていたのか。
「意識ははっきりしているようだし」
 男は一人の世界で思考にふけっているようだった。五分くらいそうしていただろうか。その間どうも時子の存在を忘れているようだった。突然思い出したかのように時子に問いかけた。
「血がほしいんだ」
「はあ、それなら輸血センターとかに」
「いやいやいや、医療用とかじゃないんだ。違うか。ある意味医療用ではある」
 そういいながらまた一人の世界に行ってしまった。
「問題は、君が協力してくれるかどうかなんだ。」
「え、あ、はい」
「どうも君はいくら血を抜いても全く支障をきたさない特異体質らしい。で、月に一回くらい今回くらいの血液を頂きたいんだ」
「はあ、まあそれくらいでしたら」
「いいの?ありがとう、いや助かった。困っていたところなんだ。このせいで日本各地を移動して生活しなくちゃならなかったし」
「大変でしたね、それは」
「昔は楽だったんだけどねえ。最近は事件性があると警察が動いちゃうから。あいつらのせいで酷い目にあったよ」
「あのう、協力するのはかまいませんが、謝礼とかは頂けないのでしょうか。うちの親小遣いに厳しくて」
「ああ、うん、もちろん」
 こうして燕子花時子は自分の特異な体質に気づくことができ、毎月使えるお金が少し増えた。