抽象について

 それでは「抽象」の話をしよう。

 まず、「抽象」的であることを「曖昧」と同様のニュアンスで捉えないでいただきたい。言葉の本来の意味を考えれば、これは明白なことだ。

 たとえば、あなたはとある問題を解決するために式を立て、xに関する不等式を解く。そこで「x = 2.5 がこの式を満たす」と答えれば、それは「具体」的な回答のひとつではあるが、解として十分ではない。「2から3くらい」と答えれば、それは「曖昧」な回答であり、不正確だ。

「2 < x <= 3」と答えれば、どうか。それが「抽象」的な回答だ。この回答は、解の存在する範囲を、厳密に、過不足なく、あらゆる意味で揺らぎなく完璧に表わしている。

 すなわち、「抽象」は厳密たりえる。決して「曖昧」ではない。曖昧に見えるとしたら、それは単に最初から問題と無関係で、決定する必要が本質的に存在しない部分を見て取っているに過ぎないのだ。


 たとえば、"この街"は三年後に"滅びる"。「抽象」化した、あらゆる意味でそう言える。「この街」が何を指すのか、「滅びる」という現象が具体的にどのように生じるのか、それを特定する必要はない。ともかく、無数に存在するあらゆる可能性で、あらゆる平行世界で、あらゆる"この街"があらゆる意味で"滅びる"のだ。

 私は、「抽象」したことしか言わない。私が「この街」と言った時、あるいは「学校」と言った時、それはあなたの知るどこかを指してもよいし、あなたの知らない何かを指してもよい。「この街」とは「河足市」であってもよいし、「紀津市」であってもよい。「学校」とは「風清和高校」であってもいいし、「萌理学園」であってもいいし、「FSPスクール」であってもよい。そういった具体性は、「抽象」すべき本質からこぼれ落ちた要素でしかない。

 私も、話主である私もまた、「抽象」の際にこぼれ落ちる具体物だ。だから私には名前がないし、私が私である必要もない。よって、次に言葉が語られる時、おそらく文体は変わるだろうし、人称が変わる可能性すらあるだろう。

 だから、あなたはあまり細かいことに囚われず、何をどのように抽象するか、その見極めに励むがよい。そうすることによって、無数の可能宇宙が重なり合って干渉し合うあまりに不安定な私たちの世界は、はじめて唯一の統一的で抽象的な姿を現すことになる。

 これが「抽象」についての話だ。