不治の病

1

 英は私の友達だ。

2

 口草英の英の字は、これひとつで"あや"と読む。"はなぶさ"という読みもあるらしく、初めて出席簿を手にした先生などはよく誤読してしまう。わざわざ凝った読み方をされる度に訂正する英の姿はわがクラスのお約束で、ストレートに"えい"と読まれてしまった時などは逆に落胆するほどだ。

3

 突然、英が倒れたと聞いた。後から考えてみると、倒れたというのはどうやら比喩らしく、「入院した」という情報が装飾されて伝わったものに思える。英の病に関して、「突然倒れる」ような症状に繋がる要素は何もないからだ。

 ともかく英が入院したということで、私は名誉あるプリント配達係に任命された。なにせ、英が入ることになった病院は、私の家から自転車を軽くこいで行ける距離なのだ。この地方でも有数の大病院だが、そんなところにでも住宅街からアクセスできてしまうのが、地方都市の楽なところだろうか。

 頻繁に尋ねることがストレスにならないほど親しい友人が英にはあまりいない、というのも、私が選ばれた理由ではある。人当たりが悪いわけではなく、避けられているわけでもないが、どうにも間が独特なのだ。正直なところ、あまり現世的でない感じはする。

 冷房の効いた館内に入り、道中かなり汗をかいてしまっていたことをようやく自覚する。受付で聞きだした部屋番号を唱えながら、エレベータの世話になる。7階へ。病院のあの独特な匂いはあまりなく、なかなかいい感じのところだなと思う。

 エレベータの扉が開いた途端、そんないい気分は吹き飛ぶ。他人を巻き込んで嫌な気分に引きずり込むような、けたたましい喧噪が聞こえたのだ。喧噪というのは言い過ぎかもしれなくて、どうも様子を窺うと明確に騒いでいるのは一人だけらしい。公道で思わず他人のプライベートな行為を目撃してしまった時のような気まずい気分になりながら、私はその騒ぎを無視しようとする。無理だった。騒ぎの元は、まさに今向かおうとしている英の病室だったのだ。

 そういえば聞き覚えのある声だった。英のお母さんだ。英のお母さんは、開け放たれたドアの前で驚いている私に気付きもせず、担当医らしい中年の先生にすがりついている。当然、先生は困っているようだった。隣では、あまり事態を呑み込めていないらしい英の小学生の妹が、ぼうっと口を開けてその光景を見つめている。

「先生、嘘ですよね! 嘘ですよね!」

 どうやら、英のお母さんはそう言っているらしい。英のお母さんは、英のそれとはちょっと違ってとり澄ましたような感じがあるけれども、それでも"英のお母さんだなあ"と思えるくらいには物静かな人だ。そんな普段の姿から、今の取り乱した姿を想像することはとても難しい。けれど今の英のお母さんは、実際みっともないくらいになりふり構わず慌てふためいていて、私は自分の中に宿っていた小さな幻想がひとつ壊れたのをかすかに感じる。そのおかげで、逆に私は冷静になれたのかもしれない。

 病室の奥、ベッドの上で上体だけを起こし、我関せずといった感じで窓の外を見ている英がいた。この季節の院内の窓は開放厳禁なはずだが、英め、個室なのをいいことに軽く開け放していたらしい。学校でも時々やっていたが、冷房の効いた部屋の中から外の熱気を楽しむなんて、そういう行動が英らしい。私と違い、そんなことをしても全然汗をかかないところが、この子の現世的でない雰囲気に一役買っていると思う。

 英が私に気付く。少しまぶたを下げ、薄く唇をひらいて微笑む。鉛直よりもほんの二、三度だけ傾いたような、わずかにそんな気がする首の角度。そのあるかないかのはかなさが、いつも私を魅了する。こういった瞬間、私と英の二人だけの空間が現世から永遠に切り取られていて、だから周囲の幻想など私たちには何の関係もないのだと思う。そんな錯覚をさせてくれるから、英のことが私は好きだ。

「先生、お願いします、もう一度ちゃんと確かめてください、お願いします!」

 錯覚はいつも脈絡もなく否定される。否定された錯覚は意識の中に残らないので、私はこの時感じていた英に対するふしだらな思いを呼び戻すことはないし、自覚することもない。今までだって、ずっと同じことを繰り返してきた。だから、私の錯覚を破壊した英のお母さんの金切り声を責めるべきいわれはないし、私自身の気分にしても、病室の前に立った瞬間の驚きと戸惑いが舞い戻ってきた。

「先生……そんなことって、そんなことって酷すぎるじゃないですか! どうしてこの子だけが! どうしてよりによってうちの英だけが……!」

 ただ、肝心の英自身が達観した様子で微笑んでいるので、その場の喧噪はやはりちょっと茶番じみて見えてしまった。目の前で繰り広げられてはいるけれど、手を伸ばしてもその状況に触れることはできなくて、ただのっぺりとした液晶画面の平面に触れるだけ。そんな気分が、この時の英を通じて、私も確かに共有できていたと思う。

「うちの英が……英が……中二病だなんて……!」

 体内の膿を吐き出すようにそれだけ言って、英のお母さんは途端に覇気をなくしてくずおれる。嗚咽を漏らす英のお母さんをあやすように、中年の医師がその肩に手をかける。英の妹はゆっくりと私の方に顔を向け、「おねえちゃん中二病なん?」と首をかしげる

 なんだギャグか、と私は思う。英は、仕方ないねという感じで首を振りつつ、あいかわらず涼しい顔で外の熱気を楽しんでいた。

4

 もうすぐ、本格的に、夏。