ザリス・ノート

 そして不愉快なことがさらにひとつ増えた。ノートに、書いた覚えのない日記が現れている。また魔王の悪戯かと思い斧をかついで追いかけたが、頑として口を割らない。しまいには私の方が先に、斧でやつの口を割ってしまった。これでは声も話せないだろうと考え、魔王をその場に放置したまま私は車椅子がらがら部屋を後にした。

 魔王のたちの悪い仕込みという可能性は残されている……しかしそれはまだ幸いな方の可能性である。さらに悪しき可能性は、それがまぎれもなく私の思考をトレースした日記であり、なおかつ私自身が書いたわけでもない……というパターンだ。その最悪の想定は、おそらく正しいのだろう。私が無意識の間に文章を物すほどの卓越した夢遊病者でない限り、この日記を書いたのは私ではなく、そして当然他の誰でもない。それは自然に生じた、ノートの中にひとりでに現れたとしか言いようがないのだ。それも、たしかに私の思考を刻銘に写し取る形としてだ。

 これは、非常に不愉快なことだ……。この魔界にあって、またしてもこのような事態が私を襲う。この日記は確かに私の人格と一致しているが、しかし私の人格が先にあり、その後にこのノートの文面が現れたことを保障するものではない。ノートにこの日記が現れ、しかる後に私の人格が都合よく書き換えられ、まさに日記と同期する形で私の人格が規定されたのでないとなぜ言える? 魔界とは、物語が因果を支配する恣意的な時空だ。私が魔王に呼び出されてから今のこの瞬間までの短い間でさえ、意識の連続性を確実に保ち続けてきたわけではない。仮にそれが可能であったとしても、人格の持つ"過去"の記憶など所詮は"現在"の人格の脳内に属するものである。"過去"の記憶を書き換えるのに過去を改変する必要はなく、ただ"現在"の私の脳をいじくりさえすれば事足りる。

 地獄のようだ。私は地獄のようなおんなだ。突然呼びつけられた私に対して与えられたのはおざなりな説明だけで、いまだにまともな文脈も与えられていない。魔王は勝手を言い、魔界は勝手にある。魔王の文脈が私を語り、魔界の文脈が私を騙る。それは分かったが、しかしでは、私の文脈はどこにある? そんなものありえまい。連中は、私にそのような余地を与える気は毛頭ないのだ。このユートピアとされる魔界にあって、私だけが私を規定していない。このように長々と書き連ねられる思考は、文脈を獲得しようとするせめてもの抵抗か? この思考もまた、このノートに写し取られるのか? 私が私でない上に、その人格までをもたかがノートに規定されるとしたら、そのようにして存在する私とは一体何だ?

 ふと、自死に対する好奇心が芽生える。火炎で脳を焼滅し尽くす。手刀によって首を断つ。この窓より身を投げる。精神と魂の活動を霊的原理に従って自発的に停止する。いずれの方法によっても、即座に死に至れるだろう。しかし、これは好奇心だ。厭世の感情による瞬発的な死への衝動ではなく、夕食の献立が麺かパンかを気にする程度のあたりさわりのない好奇心。つまり、肉体の死を得た時、この魔界ではそれが全ての終焉となるのか、次の瞬間には別の場所に存在してまた相変わらずこのくだらない人格が継続するのか。いずれにしても、そんなものは私にとっての救いにはなりえない。それに自分で試すよりは、その辺をほっつき歩いている誰ぞの頭を借りてかち割った方が手っ取り早い。

 それ見ろ……このような思考をしていること自体が、既にノートからの干渉の結果であるように思えてくる。神話的特性など知ったことではない、という気持ちが実際のところだ。真面目に調べてみたところで、どうせ私の項目になどろくなことが載っているまい。つい先だって与えられたばかりの私の人格だが、いずれにしてもこれがろくな由来を持たないことくらいは把握できる。忌々しいノートなど燃やしてしまえ。私は心底理性からそう思うのだが、しかしどうしてもそれを実行する気になれなかった。この結果こそ、私がノートによって規定されていることの証左である気がしてならない。