不特定点


 私は、その時眠っていたと思う。中が空洞の腐った木の幹をへし折るような音、あるいは束ねた厚紙を引っ張って無理矢理ひっ千切るような音……しかも潤沢な湿気をたたえたような、いずれにしても生理的に不快な気配が私の意識を呼び戻した。魔王が、また余計なことをしているのか……そのように軽く考えつつ、しかし異常な重圧感が背骨や下腹部のあたりにのしかかっているような気もする。妙な焦燥に急かされつつ上体を起こし、魔王の寝床に顔を向ける。

 そこで、魔王が捻れている。

 魔王は右肘と左腿を床につけて、身体を支えている。魔王の身体はきわめて極端な方向に折れ曲がり、頭はほぼ床と並行の方向を向いている。左の脇腹が大きく割き開かれ、そこから黒い粘性の影、視覚による補足が不可能な存在が上方に生えている。影は魔王の身体をいくつかの万力でしっかりと掴み、輪状に開閉する乱雑な刃物によって左腕を挟んでいる。それらは影の腕であり、また牙のようであったが、私はそんな腕や牙をこれまで見たことがない。牙の輪が収縮し、挟まれた魔王の腕がすり潰され、肉屑と雫を散らしながら、影の中に呑み込まれる。万力の腕が魔王の胴体を捻ると、石を砕くような音がして背骨と肋骨が潰れる。影は魔王の身体から生えているが、もはや影は自立しており、支えられているのはむしろ魔王の側である。牙の輪が魔王の左側頭に食らいつき、頭蓋とその内容物が破砕する。

 魔王と目が合う。

 魔王の残された右目の空洞が、たしかに私を捉えている。魔王の眼窩からは、何かの溶液のようなものが垂れている。それは涙だったかもしれないし、それ以外のものだったかもしれない。その穿たれた空洞の奥に、かつて意志であったものの瞬きが明滅する。私の全思考は、おそれに塗り替えられていた。その感情の大方は眼前の異形に対する語る術なき畏怖に占められていたが、残されたほんの幾ばくかの感情は魔王の意志が消尽していくという事実に反応していた。象られた魔王の肉体は、魔王ならぬものの深淵からの意図によって引き攣るように口を開く。

「ほおる、Tera/絶連の再び汝のスクリプ音量はが次元えず、そしてまた3時そのタイド論が豊潤を尽くすゆえに放逐せし天球に辿り、また天球ならざりし幻燈Jowの頭巾が動悸発作の窓枠を頬張りし。そして解せず幾何剃刀れる圧倒的バランス」

「バラン……ス」

 私から漏れ出た声は、私の声とは思えないほど痙攣していた。声だけではなかった。私は痙攣する物体になりはてていた。恐怖と痙攣こそが今この時の私の本質であり、腕や身体や頭や意識、精神も霊魂も、ただ取り置きのものを無理矢理かぶせて形だけ整えた些末なるインタフェースに過ぎなかった。

「そそそuおです」

 消散していた魔王の意志が、今この瞬間だけその瞳に収束した。私には、それが彼女の最期の瞬間であることが分かった。

「sおうですすすこれはワアアアールドインタあフェえええースなのでsssdからこのせせせ界はdんな形wおもとりえるしししそrえはあらyうる別のかたchで表現sることもkあ能なのですすすすすすkれはとるにtらない選択のい択sかなああああいでskらら

 ですから、これは忘れていいのです」


「え?」

 いつの間にか、私は上体を起こして虚空を見つめていた。その視線のやや下方では、魔王がいつも通り暢気ないびきをかいて寝入っている。いやだ。これは、寝ぼけていたのかもしれぬ。全く記憶にはないのだが、身体の疲れ具合から、少なからぬ時間をこの姿勢のままでいたようだ。自分に夢遊の気があるなどと指摘されたことはないが、しかしこのようなことが常態化しているのであれば、睡眠の充実度に関して考えを改める必要があるかもしれぬ。いずれにせよ、一人で起きているのは馬鹿らしい。私はとっとと薄毛布を整えて潜り込み、

「血の匂いがしますね」

 魔王が言った。


(記録はここで終わっている)